(あたしはあたしの手札すべてを墓地に送り召喚されたモンスターだよ)
/山中千瀬「グッドラック」『死なない猫を継ぐ』(典々堂、2025年)
山中千瀬歌集『死なない猫を継ぐ』 | 典々堂 powered by BASE
カードゲームの話だと思う。手札をすべて墓地に送ることで召喚されるモンスター。リスキーではあるが、その分強力な能力を持つ、派手な切り札なのだろう。物語であれば、主人公が使うそのモンスターの登場が一つのクライマックスになるような。
しかし実際のカードゲームで、そういったカードが本当の意味で強い、言い換えれば勝利のために効率的なことはあまりないと思われる。多くのカードゲームにおいて、手札とは行動の継続力や選択肢の数に直結する重要なリソースだ。それをすべて手放してしまうようなカードは、往々にしてコストにリターンが見合わない1。仮にそのモンスター自体は召喚できれば圧倒的に強力だとしても問題はなくならない。もっとローリスクで、現実的にゲームに勝利できる程度の強さを持つ代替案がある場合がほとんどだ。一体のモンスターに命運を託すのは、あまり合理的なプランではない。手札がなければ、他のモンスターを召喚することも、召喚した「あたし」を守るためのカードを使うこともできない。
そう、召喚されたモンスターは「あたし」だ。「あたし」はひとまず召喚された。でも、相手が「あたし」を害するようなカードを使ってきても、対応できるかは心許ない。後続のモンスターも、もう来ないかもしれない。手札がないのだから。
そんなことは分かってる。だって召喚したのも「あたし」だから。「あたし」は、プレイヤーという特権的な立場すら手放してフィールドに降り立った。
モンスターはプレイヤーよりずっと危険に晒されている。敵のモンスターにまず攻撃されるのはたいていモンスターだし、プレイヤーを直接的に倒すカードはそうそうない2けれど、モンスターを一撃で墓地へと葬るカードはいくらでもある。一首全体に括弧が掛かっているのは、モンスターになったがために、人間の言葉で発話ができなくなったからだろうか。
でも、モンスターにならなければ、相手のモンスターと戦えない。その後ろにいるプレイヤーも倒せない。ゲームのルールはそう決められている。たぶん、相手はすでに大量のモンスターを召喚して、こちらを待ち構えている。自分がモンスターにならないといけない、操れるモンスターなんていない「あたし」にとってはとても理不尽なゲームだ。だけど、やってやる。
リスクとリターンなんて関係ない。自分がこのゲームにおいてどの程度強い存在かも、代替案があるか、他の誰かがやってくれるかもどうでもいい。守られなくても、味方が来なくてもかまわない。傷付けられても、墓地に送られるとしても、誰にも声が届かなくても。プレイヤーと違って、モンスターは負けてもそこでゲームが終わるわけじゃない。墓地から復活することもある。
「あたし」は戦う。プレイヤーに、オーディエンスに見下ろされながら。モンスターを操り、自分たちを傷付けてきた相手プレイヤーを倒すため、そしておそらくは、かつて自分が墓地に送った手札のように、いつか、このゲームそのものを終わらせるために。
「グッドラック」は『短歌研究』2023年4月号の特集「短歌の場でのハラスメントを考える」に寄稿された連作で、そのことは『死なない猫を継ぐ』のあとがきでも言及されている。掲出歌はその一首目だ。
連作には、手が印象的に、何度もあらわれる。
流されんためにつないだ手かもだけど渡り終えても触れていいかな
きみのことは知らない何も左手に空っぽの水鉄砲さげて
よろしくじゃないよな それでも手を伸ばし友だちとゆく花道なんだ
手札すべてを墓地に送った「あたし」にも、それでも手を伸ばし、つないでゆける友だちがいることに、すこしほっとした。
cf. 川野芽生「この世の語彙で」『幻象録』(現代短歌社、2024年)